深き海より、蒼き樹々の呟き

by 深海 蒼樹(ふかみ そうじゅ)

*

あの頃の曖昧な記憶

      2013/09/11

 フランソワ・トリュフォーの映画のタイトルをもじったわけではないけれど、あの頃の僕は、『大人はいつもわかってくれない』という不満を常々抱えている子供だった。
 そして、不満と同時に、ひどく不思議で仕方なかった。だって、誰もがいきなり大人になるわけではなくて、赤ん坊として生まれて、子供として育ち、そして親になったりならなかったりするにしろ、大人になっていくはずなのに、なぜ、こんなにも子供の頃の記憶が抜け落ちているんだろう、と。なぜこれほどまでに、子供がわからないんだろう、と。まるで、自分たちには子供だった経験なんてなかったかのように、そんな記憶の断片すら残ってないかのように。

 いま現在、僕は立派に大人になっている。「立派」というのは、大人としての出来の善し悪しを表しているわけではなくて、ただただ、年齢的に十分に大人だというだけのことだ。ちなみに、1963年生まれの僕は、この記事を書いている今年、50歳の誕生日を迎える予定だ。

 十分に大人になったいまの僕が振り返ると、不思議なくらい、子供時代が遠くに感じられて、僕に子供時代なんてなかったとまでは言わないまでも、あの頃の『大人はいつもわかってくれない』という不条理や怒りは、いつのまにか、薄いベールに包まれてしまっているように思える。そのベールのことを、『成長』と呼ぶのか、『身勝手な自己肯定』と呼ぶのか、はたまた、『新たなバイアス』と呼ぶのか、僕にもわからない。それをどう名づけて、どう呼ぶにしろ、呼ばれているものにかわりはない。もしも誰かがそれを『成長』と呼ぶなら、それはそれでかまわないと思う。ただし、その『成長』という言葉の中身については、語ってもらわなければわからない。

 『大人はいつもわかってくれない』が、僕自身が大人にカテゴライズされていく時間的年齢的経過のなかで、『他人はいつもわかってくれない』になり、時には、『だれもいつもわかってくれない』なんて、少し病的な気持ちになったことがあったのも事実だ。そして、翻って、では、それを嘆く僕は、自信をもって、だれかのことをわかっているのだろうか?という、当たり前な疑問に出くわす。
 もしくは、僕自身が、どれだけ、他者に対してほんとうは無頓着で、無関心であったかということに気づく。どこかステレオタイプなその他者は、目の前にいる具体的な◯◯さんでありながらも、◯◯さんであると同時に△△さんであり××さんであるような、曖昧模糊としたものでもあった。たとえば、だれかが、僕と◯◯さんを同一に語ることを、僕自身は決して許さないくせに、僕はいつのまにか自分の都合に合わせて十把一絡げに他者を束ねあげて、語っている。

 『言葉なんかおぼえるんじゃなかった』と、「帰途」という詩の中でそう吐き捨てたのは、田村隆一だった。
  

  言葉なんかおぼえるんじゃなかった
  言葉のない世界
  意味が意味にならない世界に生きていたら
  どんなによかったか

 誕生日プレゼントがほしくて繰り返すわけではないけれど、今月、僕は50歳になる。
 そんな僕は、いま、どこにいるのだろう?
 不完全な言葉を書き散らす、無責任な大人として。

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