深き海より、蒼き樹々の呟き

by 深海 蒼樹(ふかみ そうじゅ)

*

キンモクセイ

      2013/09/11

緑の石畳

 今年はいつまでも暑くて暑くて、いつになったら夏が終わるんだろうなんて心配しながら、10月の衣替えもいらないんじゃないかなんて言ってたら、やっぱり10月には暑さもおさまって、ついこの前まで夏バテ気味でアイスクリームばかり食べてたことも忘れて「食欲の秋ですな」なんて秋の始まりを感じたところだったのに、夜中にあまりの寒さに目が覚めて、押し入れの中の毛布を取り出すかどうか迷いに迷ったあげく、結局のところ寒さに勝てずにあきらめて押し入れから引っ張りだした毛布が体に馴染むまでの間、今から30年以上前、彼女が登校前に僕の家に文化祭のチケットを持って寄ってくれた秋の朝のことを思い出していた。

 30年前と言えば、携帯電話はおろか、パソコンなんてものもなくて、EメールもLINEもなくて、お互いの連絡は、家の電話か、手紙を書いて郵便で送るしかなかった時代だ。
 おそるおそる彼女の家に電話をすると、どんなに彼女が注意深く僕からの電話を待っていても、なぜか彼女以外の家族が電話に出る。運がよければ彼女の母親が、気は進まないけれど彼女につないでくれたし、運が悪ければ彼女の父親に、そんな娘はうちにはいないと言って電話を切られた。
 あの頃、そうやって僕らは彼女の両親というものを通して世間にコンタクトし、大人というものを理解し、なんとか電話をつないでもらえるよう感じのいい礼儀正しい話し方と敬語を覚えた。

 僕と彼女は別々の高校に通っていて、その日の朝の彼女の訪問をどうやって約束したのか、僕は覚えていない。
 おそらくは、文化祭当日の何時頃に彼女の学校に行くかとか、誰と行くかとか、僕の親や近所の大人の目を気にしながらも、少しの時間、会話をしたはずなのに、それも僕は覚えていない。文化祭のチケットを入れた、おそらくは女の子らしい封筒を渡されただろうことも、チケットを渡し終えた彼女が自転車に乗って去っていく後ろ姿も、まったく思い出せない。
 ただ、僕が玄関を開けて出たときの、シンと冷えた朝の空気と、僕らを包みこむように香っていた庭の強烈なキンモクセイの匂いと、君が僕の姿を見てホッとしたようにこぼした笑顔だけを、覚えている。まるでそれだけをいつまでも覚えておくために、ほかのすべての記憶を消されたかのように。

 そんなことを思い出しているうちに、毛布が自分の体温で暖まりはじめ、僕はもう一度眠りに落ちていく。完全に眠りに落ちる前に、僕は思い出せるはずもないのに、ひどく気になりはじめたあることを思い出そうとする。
 あの時、僕は、きちんと彼女に、「ありがとう」って言っただろうか?
 勿論、その「ありがとう」の有無のせいで、後日ふられたわけではないし、いまさらそれを思い出したところでどうなるわけでもないし、どっちでもいいんだけれど、もしもあの日、きちんとお礼が言えてなかったら、ごめん。
 そして、30年後にも残る思い出をくれたことも含めて、あらためて、ありがとう。
 今夜はもう寝るから、おやすみ。

 - 物語みたいなもの

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