深き海より、蒼き樹々の呟き

by 深海 蒼樹(ふかみ そうじゅ)

*

もしもあながたペーパーバックを丸々1冊読んでみたいと思うなら(1)(もしくは、僕が娘にこっそり伝えたいものシリーズ)

      2013/09/11

 もしも、あなたがペーパーバックを丸々1冊読み通してみたいなら、もしくは、僕の娘がそう望んだとしたら、僕にできるアドバイスはないかと思って、この記事をエントリーした。

 昔々、僕がまだ大学生だった頃、春になってヤル気スイッチがONになると、今年こそ丸々1冊ペーパーバックを読んでみせるぞと意気込みながら、梅田の紀伊国屋書店でペーパーバックを物色したものだった。しかし、残念ながら、何度も、何冊も、はじめの第1章すら読み進めず、ほんの最初のところで挫折なんてことを繰り返していた。

 曲がりなりにも、現役の大学生なんだし、辞書をひけば、なんとか意味はわかるはずだと、僕はタカをくくっていた。しかし、なぜだろう? ことは、そう単純なことではなく、なかなかうまく読み進まないし、読んでいても全然面白いと感じられなかった。
 まずは、最初の1冊を、どう読むかが大切だと思う。とりあえず、1冊丸々最後まで読み通してしまえば、次の1冊は不思議と楽に読めるものだ。自信とかそういうものでもなく、あぁ、そうだったのかと、1冊丸々読むことで色々と見えてくるものがあるし、1冊丸々読み通すうちに、知らず知らず身につくコツのようなものもある。

 無理にたとえるなら、フルマラソンにたとえてみよう。
 僕は、フルマラソンを走った経験がない。だから、フルマラソンを経験的に語ることはできないし、そこから感じ取ったり身についたものもない。しかし、フルマラソンを、それがどんなタイムであろうと、もしくは最初から最後まで走らずに歩いたという経験であったとしても、その人にはフルマラソンについて語るべきものがある。
 そして、スタートからゴールまで完走したランナーにしか見えないもの、感じ取れないものがあるのではないだろうか。勿論、途中棄権したランナーには途中棄権したランナーにしか語れないものがあるだろうけど、途中棄権を目指してスタートを切るランナーはいない。

 まぁ、要するに、そんなにたくさんのペーパーバックを僕は読んできたわけではないことを、再度断っておくが、つたない僕の経験を語ることで、少しでもあなたの経験の手助けになれれば嬉しい。

僕が読んだ本

  • The Hotel New Hampshire by John Irving
  • Kramer vs. Kramer by Avery Corman
  • Cheeseburgers by Bob Green
  • If Tomorrow Comes by Sidney Sheldon
  • Bright Lights, Bic City by Jay McInerny
と、5冊までは、なんとか記憶をたぐって思い出すことができたが、あとは、なんだかよく思い出せない。Raymond Carverや、アンソロジーだとか、いくつか短編集を読んだような気もするのだけれど、今ひとつさだかではない。というのも、これらの本を読んだのは、今から30年近く前のことになるからだ。短編集というのは、わからないものはすっ飛ばしてしまっていたかもしれなくて、丸々1冊読み通したという実感もないので、ここでは省略することにする。

古典ものと現代もの

 あなたがこれから読みたいと思って手にとってるペーパーバックは、現代に書かれたものだろうか?
 それが、なにか? って、思ったかもしれないけれど、それは結構重要なことだったりする。

 僕が生まれて初めて丸々1冊のペーパーバックを読み通したのは、ジョン・アーヴィングの「ホテル ニューハンプシャー」だ。
 それまでに、スコット・フィッツジェラルドの「グレート ギャッツビー」や、サマセット・モームだとか、テネシー・ウィリアムスだとか、いわゆる世間で言う、名作や古典と呼ばれるものを読もうとして、ことごとく挫折していた。

 基本的に、古い時代の本は、古い言葉が使われているわけで、英語も実はそうらしい。『そうらしい』というのは、僕にはその辺が理解できているわけではないので、正直にそう書いている。
 ただ、経験的に言えるのは、僕は古典的な名作を読むことには挫折し、現代物を読むことには、なんとか成功したという事実だ。そして、僕自身が、古典的なものよりも現代ものの方が、読みやすいと実感した。

 フィッツジェラルドの英語と、ジョン・アーヴィングの英語が、どれほど違うのか、僕にはわからないし、それを説明する英語力もない。ひょっとしたら、その違いを敢えて日本語に置き換えると、樋口一葉と村上春樹くらい違うのかもしれない。
 だとしたら、これから日本語を身につけようと思う学習者が、わざわざ、樋口一葉の「たけくらべ」から日本語を始めないように、僕らもわざわざフィッツジェラルドから英語を始める必要はないというわけだ。

ストーリーを知っている本

 あらすじも展開も知らないような、初見のペーパーバックに手を出しても、読めるはずがない。
 これは別に、あなたのことを言っているわけではない。何度もペーパーバックに手を出しては、最初の数ページで挫折して、そのまま放置ということを繰り返していた僕が、今思うとそうだったという話だ。

 「ホテル ニューハンプシャー」も「クレーマー クレーマー」も、なんとか最初から最後まで読み通せたのは、映画を見て、ストーリーを知っていたからだ。
 話の大筋を知っていると知っていないでは、読み進んでいるときの不安感に雲泥の差がある。
どうしてもわからない文章が出てきたとき、明らかにこれは話の大筋とは関係ないと判断できるなら、まったくスルーしてしまってもいい。しかし、話の進む方向を知っていないと、その文章がこれからの展開を左右するような重要な文章なのか、そうでないのか、判断するのが難しいし、ひとつの文章を読み誤ったがために、ずいぶんと遠回りをしなければならない場合があることを、僕も経験上知っている。
 しかし、ここで大切なのは、すべてを正確に精読することではない。丸々1冊、最後まで読み通すことが、目標なのだ。だから、答えを知ったうえで、問題を解くことも、全然ありでいい。

 そして、もうひとつ。
 話の筋を知る方法としては、日本語訳を先に読むとか、もしくは、日本語で書かれたものの英訳本を読むという方法もある。しかし、どちらも、僕はあまりお勧めしない。日本語で読んだものを、英語で読み直すよりも、映画を見て(勿論、映画にだって台詞だとか字幕だとか文字情報も含まれているんだけれど)、あらすじを知るのがいいと僕は思う。
 なぜなら、ペーパーバックを読んでいて、頭の中で、あぁ、あのシーンか、と、自分が読んでいる部分と映像とが結びつくからだ。自分が読んでいる場面を、頭の中に明確にイメージしながら文章を読み進められるということは、かなりなアドバンテージだし、英文からだけでは汲み取れないものを、映像がかなりな部分補完してくれたりもする。

 さらに、もうひとつ。
 だったらそのまま映画の脚本(シナリオ)を読めばいいんじゃないかとあなたが思ったなら、ごめんなさい。それも、僕は、お勧めしない。 僕もそう思って、そういう本に手を出しかけたこともあるんだけれど、それはあくまでも映画のそのままのシナリオであって、なんだか読んでいても全然面白くない。書かれている英語が簡単で面白くないというわけではない。それよりも、せっかく辞書をひいて意味を理解しても、それは単に映画の台詞の焼き直しなだけで、得る喜びが少ないのだ。
 これは、僕の個人的なメンタリティーの問題なのかもしれないけれど、シナリオを読むなら原作を読むこと。僕は断然そちらをお勧めする。

会話は難しい

 大学の英語の授業で、サマセット・モームの短編小説がテキストだったことがあった。よくは覚えていなけど、それは、いきなり会話ばかりで始まるような、そんな小説だったように思う。
 いわゆる、地の文がなくて、どういう設定のもとにそれらの会話がなされているのかが、まったくわからない。というか、そういった場面設定からなにから全部を、その会話から読み取らなければならなかった。

 英語の場合、それが男性だろうと女性だろうと動物だろうと無生物だろうと、それが主体となり主語であるなら、それは I で、語られる。
 つまり、日本語でいうと、『僕は』『オレは』って書いてあれば高確立でその語り手は男性、『わたしは』ってあれば女性なんていう経験則が働くのだけれど、英語の場合はすべて I なのだから、誰が話し手なのかが非常にわかりずらい。
 しかも、場面説明の地の文もなく、つらつらと会話だけで話を進められると、とてもツラい。よしんば、名前なんかが出てきたとしても、それが、『つよし』なら男性、『さゆり』なら女性、って日本語なら男女の見分けが容易について、話が見えてきたりするけれど、英語の名前だとその辺りが非常におぼつかない。もっと言えば、出てきた固有名詞らしきものが、苗字なのか下の名前なのか、そもそもその固有名詞が名前なのかすら自信がもてなかったりする。

 場面設定がわかっていて、そこにいる登場人物が誰と誰なのか、はっきりとわかっているならまだいい。
 しかし、誰が話し手なのか、誰と誰が話しているのかが確定できてない状態で、その会話を読み進んでいくのは、あなたが思っている以上に難しいということだけ、少し覚えておいてほしい。

 それと、ついでに言うと、英語というのは単数か複数かについて厳密な言語なので、それが非常にヒントになるときもある。
うまい例文が思い浮かばないけど、たとえば、
『バス停で、学生に出会った』
という日本語も、英語で書くと、学生がひとりなら a studentだし、ふたり以上の学生がいたならstudentsとなるわけで、敢えて僕ら日本人はそれが単数なのか複数なのかということにこだわらなかったりするけれど、それが単数形か複数形かを気にかけて読んでいくと、話のすじや場面を理解するのに役立つこともある。
そして、ネイティブの人々が、同じ英文を読んでいても、僕ら日本人以上にたくさんの情報をその文章から読み取っていたりするのは、この単数形か複数形かへの感度によるのも、その要因のひとつであると思う。

(つづく………)

 - ひとりごと, 僕がこっそり娘に伝えたいものシリーズ

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