深き海より、蒼き樹々の呟き

by 深海 蒼樹(ふかみ そうじゅ)

*

羊と僕と王国の譚(8)

      2019/02/20

 正直なところ、国王は、娘である姫に、
 「羊がいなくなっちゃった」
と言われても、うまく事態を飲み込めなかった。

 なにかの事情によって、姫が3匹目の羊を数えられないでいる様子は、ドア越しに聞いていたので察するところがあった。しかし、羊を数えられない原因が、羊がいなくなったせいだとは、たとえ姫の口からそう伝えられてもにわかには信じられなかった。
 「羊がいないとは、どういうことだ?」
 泣きじゃくる姫の両肩を、やさしくその手で包み込んで落ち着かせながら、国王はそう尋ねずにはいられなかった。
 「羊が、逃げてしまったの」
 国王に尋ねられた姫もまた、事態がうまく飲み込めていないような、うつろな表情で国王に答えた。
 「羊が、逃げた?」
 国王は、必死で頭を回転させ、姫の言うことを理解しようとした。羊が、逃げる。いったい、どこへ逃げるというのだ? そもそも、逃げるといっても、羊はどこにいるというのだ。
 国王の頭も、混乱をはじめていた。

 この国にほんとうの夜をもたらすために、国王家族が数える羊の数は30匹。それがなぜ30匹なのかなんて、国王は生まれてこのかた考えてみたこともなかった。
 国王がまだ王子だったある日、国王がやってきて、今夜から3匹の羊を数えなさいと言った。数字を覚えて自慢だった王子は、3匹どころか10匹だって数えられるのに、たったの3匹なのかと、残念な気持ちになったことははっきりと覚えているものの、どうやって羊を数えるのかだとか、4匹数えてしまったらどうしたらいいのかとか、そういう『羊を数えるにあたっての諸注意事項』に関する説明があったという記憶がない。
 そして、国王自身も、ちょうどいい頃合いを見計らって、自分の息子や娘に、今夜から3匹の羊を数えなさいと、伝えただけだ。『羊を数えるにあたっての諸注意事項』なんてマニュアルを渡したこともないし、羊の総数が30匹であることを誰にも言ったこともない。

 国王は、緊急に、家臣を招集し、姫の羊が逃げたことを告げた。
 家臣たちは、誰もが沈痛な面持ちをしていたが、ふと、得も言われぬ齟齬を感じた国王は、もう一度確認するように、家臣たちを見渡しながらゆっくりと言った。
 「おまえたち、姫の羊が逃げてしまったのだ」
 国王の放った言葉が、広く頑強でかつ磨き抜かれたテーブルの端に辿り着くまで、誰も答えるものはなかった。
 「わたくしの、役不足でございました」
と、姫の身の回りの世話をし、教育を司るものたちの長である家臣が、やっと口を開いた。
 「しかし、ご安心あれ。羊の1匹くらいすぐに連れ戻してみせましょう」
 国王は、家臣の自信にあふれた言葉に安堵して肩の力を抜き、テーブルの上に置いていた自分の手がかたく握られていることに気づいて、それをほどいた。家臣が、言葉をつづけるのを聞くまでの、短い時間ではあったけれど。
 「まさか、姫さまが王やわたくしどもに隠れて、こっそり羊を飼っていらしたとは…、いやはや、姫も隠し事がお上手になられて困ったものですな」
と言ったあと、ブファッブファッと声をたてて笑った。
 緊急召集という異常事態に凍りついていた家臣たちの緊張の糸が、その奇妙な笑い声につられてほどけ、あちこちでその声を真似たようにブファッブファッという笑い声があがった。なかには、国王の解散の命がくだらぬうちから、これで事態は解決したと言わんばかりに、椅子から腰を浮かせかけている気の早いものもいた。

 国王は、もう一度テーブルの上に置いた手を握りなおし、家臣たちを見渡して、言い放った。
 「姫の羊が、逃げた」
 国王が、再び、口を開いたため、家臣たちは一斉にピタリと笑うのをやめた。再び訪れた静寂は、なおさら深く感じられた。
 「姫の羊とは、わが羊と同意」
 そのとき、家臣たちは、姫のペットの羊が逃げたというような生易しいことではないらしいことを、国王のその語気から感じ取った。
 「その羊が戻らぬかぎり、吾をもってしても、夜を司ることはできぬ。ともかく、急いでその羊を連れ戻すのじゃ。大急ぎじゃ」
 業を煮やした王は、遂に命をくだした。
 しかし、家臣たちは、その王の言葉を咀嚼できずに、お互いの顔を見合わせ、誰もその言葉をうまく飲み込めていないことを確かめ合っていた。そして、家臣たちの視線はやがて、ひとりの、最長老へと集まっていく。全員の視線が集まったところで、長老は総意を得たりと、国王に歩み寄り、こう言った。
 「国王様、わたくしどもだけでは、王の命を遂げることは困難に思われます。どうか、ここは、歴史を紐解くことをお許しください」
 「歴史を紐解くのか?」
 先代の王より王位を継承した際に、どうしても解けぬ問題が起こったときには、歴史を紐解けと言い渡された。しかし、王位継承以来、一度も歴史を紐解いたことはなかったし、先代の国王自身もそれを行ったことはなかったと聞いている。
 「そうでございます。もはや我々だけでは、解決の糸口すら見つけられそうにありません」
 「なに? 長老、おまえの知識と見識をもってしても、糸口すら見つけられぬと言うのか」
 「国王、お願いでございます。ディービーをここに、ディービーをお呼び出しくださいまし」

つづく…羊と僕と王国の譚(9)

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