深き海より、蒼き樹々の呟き

by 深海 蒼樹(ふかみ そうじゅ)

*

『職業としての小説家』に、懐かしい村上春樹を見た

   

shokugyou

 なんだかひどく寒いなと思ったら、今日からもう10月になったんだった。飼い猫が、いつもより切実に鳴いて、身をすり寄せて暖を取ろうとするのも無理はない。
 我が家から旅立った娘は、今日から後期授業に入るらしいし、そう言えば、あんなにも鼻についた金木犀の香りが薄まったように思うのは、その匂いに慣れはじめてしまったのか、それとも金木犀自体がその役目を終えようとしているのか、毎年のことながらよくわからない。そして、そのうち金木犀のことなんか忘れてしまう。来年、またその独特な香りに出会うまでは。
 発売前に予約していた、『職業としての小説家』という村上春樹の自伝的エッセイとやらを助手席に放り投げ、僕はドライブに出てみた。

 理想を言えば、神戸港の見える埠頭に車を停めて、のんびりと読んでみたかった。もしくは、県立美術館の海沿い側の階段に座って、海を渡るバイパスを行き来する車の列の非現実感に時には目を休めながら、読んでみたかった。
 いつもながらに、正直に書こう。
 この村上春樹が、僕は好きだ。または、僕の好きだった村上春樹が、ここに、いる。
 それとも、懐かしい村上春樹が、ここにいるとも言えるし、僕の一方的な誤解であって、相変わらず村上春樹は村上春樹だったと言うべきなのか。しかしそうなると、僕は自分の軽率さを恥じるか、一抹の反省をするべきなのかもしれない。

 いわゆる、村上春樹の『芥川賞問題』についても、彼自身が語っている。そして、あの頃の話も。
 あの頃とは、村上春樹が世間の一部の人々から強烈に毛嫌いされ、薄汚いもののように取り扱われていた頃の話だ。それは、僕自身が、アカデミズムの現場で体験してきたことでもある。
 村上春樹を推すことで、僕の文学的批評眼はある種のレッテルを貼られる。もしくは、「『深海蒼樹というやつは、文学がわかっていない』『あいつは、単にミーハーなだけだ』『偉そうなことを言っても、中身のない薄っぺらなやつなんだ』なぜなら…深海は村上春樹を推すようなやつだから」と言われた。
 勿論、逆の場合があったのも事実だ。村上春樹が好きだというだけで、女の子と仲よくなれることもあった。ちなみに、至極当たり前のことだけど、仲よくとは肉体的な意味ではない。
 若いころは特にそうだと思うんだけれど、その人が、なにに関心があるか、なにが好きかということで、その人を判断する傾向が強かった。歳をとると、その人がどんなファッションをしていようが、どんな身の回りの品をもっていようが、どんな食事のとり方をしようが、それらが彼や彼女の一部であることをわきまえるようになる。好き嫌いはあっても、本質でないものは敢えて見て見ぬふりをする。勿論、見て見ぬふりできる範疇におさまりきればの話ではあるが。
 あの頃、村上春樹を推したのは、どちらかと言えば、文学的な人々ではなかった。もう少し、サブカル臭のする場所で、村上春樹は支持されていたように思える。けれど、その支持は、熱烈だった。いきなりにして、カルト作家の烙印を押されるほどに、僕や僕らの魂を激しく揺さぶらずにはいられなかった。

 誰にも迷惑をかけず、誰も傷つけずに生きること。
 僕が、「風の歌を聴け」と「1973年のピンボール」から強く受け取ったメッセージは、そういうものだった。
 しかしながら、誰にも迷惑をかけないとは、誰にも迷惑をかけられたくないという気持ちの裏返しであるし、誰も傷つけないとは誰にも傷つけられたくないという気持ちの裏返し、まさしくそれを可能にするにはデタッチメントしかない。
 僕と、世界の、微妙で絶妙な距離感。おそらくそんな理想的デタッチメントは、小説のなかでしか構築できない。虚構のなかのデタッチメント。
 用意周到に、誰も傷つかず傷つけない世界。いや、「風の歌を聴け」は、すでに傷ついてしまった人たちの物語であった。再生は、「羊をめぐる冒険」まで待たなくてはならなかったけれど。まさしく、「羊をめぐる冒険」で、『僕』は世界へ冒険に出かけたのだ。
 デタッチメントからアタッチメントへ。
 その転換は、「やがて悲しき外国語」や「アンダーグランド」を待たなくても、前期3部作のうちにも行われていたのだ。正直に言って、僕や僕らは、もう少しそのゆるやかな世界にとどまり、その心地よさに身を委ねていたかったのだけれど。

 『職業としての小説家』というエッセイには、誰も傷つけようとしない村上春樹がいる。少なくとも、傷つけることを本望としない村上春樹が。非常にセンシティブな話題を掲げながらも、そういうノイズを排除しようとする村上春樹が見える。どこか懐かしいと思えるくらいに。「アンダーグランド」のまえがきのように、いや、「風の歌を聴け」の第1章のように。
 『僕はあまりにも個人的な人間でありすぎる』と自らを評す村上春樹。過剰な面倒に巻き込まれたくない村上春樹。その面倒の対価が、社会的地位や名声であっても、彼はためらいなく個人的な人間でいられる環境を選択する。
 村上春樹が、彼のなかのどんな魂を守りぬこうとしているのか、『職業としての小説家』には、なにかが見え隠れしている気がする。まだ、それがなにかを言い当てられる気はしないけれど。

 そして、僕は、この『職業としての小説家』を読むことによって、僕の人生のとある地点に舞い戻ろうとしている。物理的に、時系列的に、過去に舞い戻れるはずがないことはわかっているけれど、少なくとも、僕の魂はかつて自分がいたその場所へ、もう一度戻ってその後をやり直そうとしている。
 久しぶりにと言っては失礼だが、村上春樹に感謝する。この本の内容や語られていることから直接と言うよりは、この本の中から透けて見えた村上春樹というひとりの人間の姿に、僕はなにかを感じとったのだ。
 いつものことながら、本のタイトルのつけ方に相変わらずセンスがないなと感じたのも、書き加えておこう。褒めてから、けなす。僕もそれなりには大人になった気がする。

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