深き海より、蒼き樹々の呟き

by 深海 蒼樹(ふかみ そうじゅ)

*

ルーシー・リーの不意打ち(Casa BRUTUS 10月号)

      2017/01/24

Rie

 せっかくはるばる来たのに欲しいと思うものがないのが口惜しくて、僕はすでに見た棚に戻ってもう一度丹念に背表紙を目で追った。そして、これはと思うものは、棚から出して手にとって目次を読んだり、ページをぱらぱらとめくってみたりもした。けれど、なにも僕を刺激しないのだ。
 何度か書いているように、僕が住んでいるのは兵庫県の田舎で、そこそこ商品が揃った本屋というのは、自宅から車で1時間ほど走らなければ辿りつけない。今日は仕事を終えてから、わざわざ、鳥取に出てきたのだ。その書店は、鳥取大学に近いせいもあってか、一般書だけでなく技術書や専門書の品揃えも充実しているし、夜の10時まで営業してくれているのもありがたい。
 会社を出て駐車場に停めた車に乗り込むとき、僕の心ははずんでいた。久しぶりの書店での買い物だったし、以前から切れていたコーヒー豆の補充にスタバにも今日は寄れる。書店で買った本を抱えて店に入り、待ちきれない気持ちで、その包みを解いて読みはじめる。あの高揚感というか、充実感というか、満足感というか。僕は、まだ買ってもいない本に思いを巡らせ、まだ出発もしていない書店からはるか35km以上離れた駐車場で、すでにそこまで想像してニヤついていた。
 にもかかわらず、その日、僕は自分の心を掴む本が見つけられずにいた。出勤前に、村上春樹の『職業としての小説家』を鞄の中から出して、自宅の机の上に置いてきたのが悔やまれる。まさか、本屋に来て、1冊の本にも巡り会えないなんて。今回はコンピュータ言語の書籍を買うつもりで、事前に買う本の選定も終わっていたのだけれど、実際にその本を手にとってみてみたら、買う気が失せてしまった。

 仕方がない。とりあえずは、スタバに行ってコーヒー豆を買って、秋の新作であるロースト・ナッティ・チェスナッツ・ラテとやらを飲んで、このガッカリ感を埋めるとしよう。スタバでの手持ち無沙汰は、スマホをいじってなんとかするしかない。
 僕は、あきらめて書店を出ることを決意した。ただ、そのときにふと雑誌コーナーに呼び止められた気がして、僕はふらふらとその通路を歩いていった。あぁ、そう言えば、まだCasaとかそのあたりの雑誌を見てなかった。美術館とか建築関係とか、読むというよりも見て楽しいものを特集しているかもしれない。期待はしてないけど。
 と、僕は、そういう類いの雑誌コーナーへと向かい、棚に並べられた本を見渡した。その書店の雑誌を並べるラックは、透明なものではないので、雑誌の上の部分しかぱっと見は見えない。僕の目は、Casaの文字だけをとらえ、ラックから引っこ抜くようにその雑誌を持ち上げた。

 正直に言おう。僕は、その場で腰が抜けるほど驚いた。なぜ、って? だって、まさかのルーシー・りーだよ。そんなこと、予想できる?
 「没後20年 ルーシー・リー展」という展覧会が、今年の4月からはじまって、1年以上をかけて日本中を巡回していくことは知っていたし、来月にやっと姫路市立美術館に巡回してくることは、早々と僕のダイアリーノートに書き込まれていた。
 そうだ、展覧会のその予定を書き込んだのは、はるか以前の話だ。そして、すっかり忘れているうちに展覧会が終わっていたらどうしようと、僕がおそるおそる自分のダイアリーノートの10月のページを開いたのは、先日のことだった。
 だとしても、こんなところで、ルーシー・リーに出会えるとは。そりゃあ、腰も抜けるどころが、砕けるよ。あまりにも不意打ちすぎるし。

 しかも、ルーシー・リーが、Casaで特集されることも、僕には予想外だった。なんで、こんなところにルーシー・リーがいるんだい? と、あまりの驚きとともに、いいものを見つけたという喜びで、僕はひと目も忘れて盛大にニヤついた。さらには、レジにいる店員の方を振り返り、こんなのがあるんなら早く言ってくれよ、危うく見逃すところじゃないかと、身勝手なクレーム視線を送ったりもした。
 よし、いい本が、手に入った。僕は、足早にレジに向かう。興奮してきたせいか、少し息が荒くなっているかもしれない。

・・・・・・・

 スタバのラインナップからすればさほどではないにしても、やっぱり僕には覚えられないし、到底口に出して言えそうもなかったので、僕は、ロースト・ナッティ・チェスナッツ・ラテとやらを、メニューを指さして、これのアイスをお願いします、と言ってオーダーした。
 コーヒー豆も、買った。僕は、店では挽いてもらわずに、豆のまま持ち帰る。若い女の子である店員さんが、家に豆を挽く道具があるってすごいですねと、言った。いや、そんなにすごいことではないはずだけど、と、僕は思ったけれど、勿論、言わずにいた。きっと、レジの間の場つなぎになにかを言わなきゃと思って、無理矢理に言葉を引き出してきたのだろう。こんなおっさんにかける言葉の引き出しが若い彼女にはまだ少なかったのかもしれないし、彼女はスタバの店員であることに生真面目なのかもしれない。
 彼女が、スタバのいい店員さんとして成長することを、僕は心の底で祈った。

 さて、僕は、適当な席を見つけて、座った。適当と言いつつ、空いていれば、大抵、僕はその席に座るのだけれど、いつもの席と呼ぶほどまでには常連ではない。
 書店の紙袋を上品に開くつもりが、結局はいつものようにテーブがついたところをうまく剥がせずに、ビリビリと破るようにほどいて中身の本を出した。今回のCasaは、表紙もいい。ヒキではなくて、アップなのがいい。
 ところで、ルーシー・リーって、有名なんだろうか? という疑問が、僕のなかに沸き起こっていた。僕が知っているくらいなのだから、有名ではあるんだろうけれど、Casaが特集するくらいに有名なんだろうか? まぁ、いいんだけどね。ふと、そんなことを思ったりしたのだ。
 僕が好きな器は、066ページ。料理研究家の長尾智子さんという方が使っているスパイラル鉢だ。僕が、ルーシー・リーを好きになるきっかけになった、二色の粘土を混ぜて渦巻き模様にした器。不均質なフォルムであるにもかかわらず、上品でエレガントだ。そして、今回、その中には、あたたかみもあることに気づいた。
 いいな、こんな器を実際に使えるなんて。と思っていたら、あっ!と、今度は別のことに気づいて、また驚いた。
 ルーシー・リーの器は、買えるのだ。そして、使えるのだ。彼女の器たちは、美術館に展示するために作られたものではないということに思い当たって、僕は、スタバのソファ・チェアーに腰掛けたまま、この日二度目ではあったけれど、腰を抜かしてしまった。たぶん、呆然として、口も半開きだったろう。
 もう一度、言う。
 彼女は、決して美術館に展示されるために、制作していたのではない。

 ルーシー・リーの盟友であるアニータ・ベッソン女史の記事のなかにも、こんな言葉があった。

そこでも陶芸品はアートではないと、なかなか展覧会を企画させてくれなくてね

そして、こうも言ったらしい。

『私はアーティストなの?一介の陶工だけど』

 なんなんだろうね? この人は。かっこよすぎる。
 僕は、何度も書くのが面倒くさいような名前のラテをストローですすりながら、ソファ・チェアーにひときわ深く体を沈め、またしてもひと目も憚らずに盛大にニヤついた。
 そして、この新作のラテも悪くはないと思いながらも、その名前が言えないので知人に紹介できないなということに思い当たって、さらにニヤついた。

以前に書いたものです。
エレガントであることは、こんなにも強烈で力強いのか!—ルーシー・リーに打ちのめされた話

雑誌のなかにも出てきた、三宅一生さん監修の本。僕も、買いました。

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