深き海より、蒼き樹々の呟き

by 深海 蒼樹(ふかみ そうじゅ)

*

井戸に降りて水を汲む—書くという営みについて

   

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 書くという作業について、もしくは、書くという営みについて、『暗い井戸の底に降りて、水を汲みに行くようなものだ』と語ったのは、村上春樹だったように思うのだけれど、その出典をうまく思い出せない。
 またしても僕の記憶違いであるのかもしれないけれど、それが誰が語った言葉であったとしても、いいような気がする。
 あまりにも言い訳じみているけれど、少なくとも、夜中の1時を過ぎて、やっと書きはじめた僕は、その出典を探し出す長い旅に出る気にはなれないのだ。
 どちらにしろ、極々個人的な、僕の勝手な問題ではあるにしても。

 僕の、書くという営みに関するイメージは、こうだ。
 残念ながら、僕の井戸に水が満たされていることは少ない。
 誰かが言ったように、もしくは、誰も言ってないのかもしれないが、『乾いた井戸の底に降りていく』というのが、まずは、書くということのとっかかりなわけだ。
 いくら頭の中に言葉が詰まっていても、どんなに豊潤で強固なイメージができあがっていたとしても、その言葉を実際の言葉にして書くためには、僕は井戸に水を汲みに行かなければならない。
 なぜなら、言葉は、そこにしかないからだ。そこから自力で汲み上げた言葉だけが、こうして文字として書き起こされる。
 頭の中で練られただけの言葉は、それはまだイメージでしかない。たとえ、ことこまかに頭の中に文字を書き連ねたとしてもだ。繰り返して言うが、それは、言葉のイメージでしかない。
 今、僕がこうして実際に書いているように、文字に起こされてはじめて、それは言葉になるのだ。それが、拙い書き手としての、僕の実感だ。

 こんな僕にも、わざわざ井戸の底に降りて行かなくても、井戸の底が見えないくらいに、たっぷりと井戸には水が満ちているよう思えるときがある。勿論、滅多にはないことではあるけれど。
 そして、僕は、そういう場合においても、結局は井戸の底に降りていかなければならないことを、経験上知っている。
 たっぷりとあるように思えた水も、実際に汲みはじめてみると大した量ではなくて、アッという間に汲み尽くしてしまうことになる。そして、ある一定量の塊としての文章を書き上げるためには、手近で簡単に汲み上げることができた水だけでは足りなくて、あの暗くてジメジメとした井戸の底に降りて行って、スコップやツルハシを不器用に振って、水が出るまで掘らなければならない羽目になる。
 言うまでもなく、スコップやツルハシを振るうというのは、下手くそで稚拙な比喩だ。
 そして、実際にスコップやツルハシを振るうわけではないのだけれど、それに等しいくらい疲れる重労働であることも確かだ。

 多くの場合、井戸は干上がり、底はひび割れている。運がよければ、底が見えないくらいには、泥水が貯まっているように思えるときもある。
 泥水だって、水は水だ。うまく掬い上げれば、飲めるかもしれない。
 あなたの喉を唸らせるような、美味い水ではないかもしれないけれど、あなたの喉の渇き次第では、僕の不味い水だって役に立つかもしれない。
 そんなことを思いながら、僕は、いつも井戸に水を汲み行く。
 いつもと言っても、毎日という意味ではない。できれば、あんな暗くてジメジメしている場所に行きたくはないし、そんなところで疲れるのがわかっているのに、スコップやツルハシを振るいたくもない。
 けれど、僕は、毎日のように、今日こそ井戸の底に降りて行って、使いこなせないスコップや重すぎるツルハシを振るって井戸の底を掘り起こしてでも、水を汲んでこなければならないと、半ば強迫観念のように思うのだ。

 たとえば、そう多くはないけれど、僕は干からびた井戸の底でスコップやツルハシを振るううちに、いい水脈を掘り当てることだってある。汲んでも汲んでもつきないような、豊かで美味い水が湧き出してくる。
 しかし、時には、というか、多くの場合は、僕の奮闘もむなしく、井戸は枯れたままで、掘り進んでも掘り進んでも、一滴の水も見つけられなかったりする。
 そして、幸運にも豊潤な水脈を掘り当てたとしても、不運にも(いつもどおりに)掘り当てられなかったにしても、深く掘り進んだ分、その井戸の底から元の場所へ帰ってくるためには、長い距離を戻ってこなくてはならない。
 それがまた辛かったりもする。
 獲物を求めて掘り進んでいる時は、大きな獲物を捕らえることができるかもしれないという「可能性」が力を与えてくれるが、獲物を捕らえることができなかったことが確定し、手ぶらで帰る道が、どれだけ侘びしく長いことか。それは、誰にだって容易に想像がつくことだろう。
 そして、獲物が捕らえられたか、捕らえられなかったかにかかわらず、もう井戸の外に戻りたくないと思うこともある。
 一番の理由は、戻るのが面倒だからだ。どうせまたここに来るのだから、戻ってまた来るよりも、ここにいればいいじゃないかと思ってしまう。
 または、暗くてジメジメして嫌いだったこの場所が、ひどく居心地がよくなってしまうこともある。それは、少なくとも、井戸の外よりはここの方がいいかなという、後ろ向きな選択ではあるのだけれど。

 しかしながら、漠然とではあるけれど、僕は、律儀にこの反復をつづけることが、書くという営みのルールであるようにも思っている。
 井戸の底に住むことは、できないのだ。
 僕は、言葉を紡ぐときには、井戸へ行き、多くの場合はその底にまで降りて行って、水を汲む。
 そして、汲み終わったときには、井戸の底から這い上がって、ここへ戻らなければならない。
 ひどく面倒で疲れる作業だ。
 井戸に蓋をする必要があるかないかは、僕にもわからない。蓋をしようがしまいが、その井戸は、僕だけの井戸なのだ。誰かが勝手に僕の井戸の水を汲むはずもなければ、誤って誰かが僕の井戸に落ちることもない。

 もう夜中の2時をとっくに過ぎた。
 おそらく、出勤までにとれる睡眠時間は、3時間にも満たないだろう。
 そろそろ、この井戸の底を出て、帰ることにしよう。決していい水脈を見つけられたとは、言いがたいにしても。

 

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