深き海より、蒼き樹々の呟き

by 深海 蒼樹(ふかみ そうじゅ)

*

『蝶類図鑑』– 大音量のジャズと苦いコーヒーと壁面いっぱいの蝶たち

      2019/05/30

 かれこれ30年くらい前、京都にその店はあった。
 僕が伝え聞いたところによると、その店の経営者は3人だったらしい。喫茶店をやりたかった男と、ジャズが大好きな男、そして、蝶を愛した男の3人が集まって、喫茶店をはじめた。
 それが、『蝶類図鑑』だ。

 暗い店の壁一面には蝶の標本が飾られ、JBLの大型スピーカーからは店の外まで聞こえるほどの大音量でジャズが溢れた。店内では淹れたてのコーヒーの香りと煙草の煙が螺旋状に絡まり合い、いつまでも消えることなく漂っていた。
 しかい、店の中に入ってしまえば、思いのほか静かだとも言えた。おしゃべりを楽しみにこの店を訪れるものはなかったし、流れつづけるジャズ以外にほとんど音がないからだ。
 唯一声が漏れるのは、注文の時だけだ。大音量のせいで、コーヒーを頼むのにも大きな声で叫ばなければいけない。
 オーダーと言っても、コーヒーか紅茶かビールくらいしかなかったのかもしれない。いつもコーヒーしか頼まない僕は、店のメニューさえ見た記憶がない。
 テーブルの上にカップが置かれる刹那のコトリという音も、熱心に読みふける本のページをめくるカサっという音も、すべてJBLのスピーカーから流れるジャズに包み込まれるように掻き消されてしまう。
 そして、色とりどりの羽根を大きく拡げ、身動きひとつしないで壁一面にとまった夥しい数の蝶たちは、まるでその薄い羽根で時の流れを止めて、僕らが大人になるのを少しでも遅らせようとしてくれているように思えた。

 女子学生が、大型スピーカーの横の席にいた。
 あんなにスピーカーに近い席で耳が痛くないんだろうか、と僕は思ったのだけれど、「灯台下暗し」の諺どおり、スピーカーの真正面ではなく側面にあるその席は意外と静かなのかもしれない。
 平日の午後だというのに今日も店内は、客で溢れていた。客の大半はひとり客で、学生が多かったように思う。もしくは、学生が抜けきっていないような大人になりきれない大人と言うべきだろうか。(烏丸にあったザ・マンホールというジャズ喫茶は、逆に社会人が多かった印象がある)
 そんな混雑のなかヘタをすれば相席になってしまうことを思えば、スピーカーの横の席は一人分だけの席をとってつけたように作ったとは言え、誰にも邪魔されない特等席なのかもしれない。
 彼女はその狭い席で、器用にテキストとノートと辞書をひろげ、フランス語の授業の予習か復習をしているようだった。昼間だというのに仄暗い、明り採りしかないような店内で。
 僕は、注文を聞きにきたバイトの学生に、口の形だけでコーヒーを注文した。声を出したところで、どうせ聞こえないのだから。

 銀縁眼鏡の細身の男が、大きく体を揺らしていた。それは、レコードに合わせてビートを刻んでいるとか、スイングしているというよりは、酔っているようにしか見えなかった。
 目をかたく閉じたまま、男は、その顔に恍惚と苦渋の色を交互に浮かべていた。サックスのアドリブラインが、もたもたと男を焦らしていたからだ。
 サックスは、飛び立つ前の勢いをつけようとブレスともブレークともつかない小さな間をとり、サックスのアドリブの邪魔をしないようにと遠慮がちながらも絶妙なバッキングで煽っていたピアノが、さぁ、そろそろと、サックスをさらに促す。
 それでは、と、意を決したように、サックスが一気にターゲットノートに向かって駆け上がる。それを、ピアノが追いかけ、ドラムが畳み掛け、ベースが畝るようにして、サックスをもっと高みに押し上げる。
 男の体はリズムを見失いながらもがむしゃらにそれを掴もうとして、電気椅子にかけられた囚人のごとくただただバラバラに手足をばたつかせていた。不思議としなやかや動きであったおかげで、まわりの客もさほど迷惑とも思わずにいられた。そして、遂に、サックスが絶頂に達すると、その曲はテーマに戻ることなく唐突に大ブレークで終わった。
 一瞬にして、店内は静かになった。押さえつけるように覆いかぶさってきていた音圧が一気になくなり、店内のあちこちから思わず詰めていた息が漏れ、咳払いが聞こえた。レコード針が溝の埃を感知して、時折パチパチと大きな音を響かせた。
 次の曲のはじまりに向けて身構えていると、レコードチェンジのタイミンがだったらしく、バイトの学生が次のレコードをセットするのに手間取っていた。
 男は、椅子からはかろうじてずり落ちない状態でとどまってはいたものの、明らかに果てていた。そして、そのまま動かなくなった。

 レコードチェンジを終えたバイトの学生が、大型スピーカーの上に置かれたレコードジャケットも交換した。それが、Now Playingということだ。
 一瞬だけスピーカー横の彼女が顔をあげ、さげられていくレコードジャケットを確認したように見えた。新しく置かれたジャケットには、無関心だったけれど。

 僕は、大抵の場合、そうやって、店内にいる人々を眺めて過ごしていた。一番の目的はジャズだったし、音の波を頭から浴びたくなると『蝶類図鑑』に通った。
 苦いコーヒーを飲むことと、煙草をすうこと以外に、僕にはすることがなかった。こんな暗い中で小さな文字を追って本を読む気にはなれなかったし、他の店では『ガロ』なんかを読んで暇をつぶすこともあるのに、なぜか『蝶類図鑑』では漫画を手に取る気にもならなかった。
 ジャズがあって、苦いコーヒーがあって、壁一面を蝶の標本が覆っていた。
 人々がいて、人々がいるのにひとことも喋らずに、それぞれが思い思いの過ごし方をしながら、黙って同じ音楽を共有し、場を共有していた。まるで寄りそうように。

 

 店を出ると、僕はいつも雑居ビルの踊り場で店のドアを振り返った。店の中が見えないような、木のドアだったろうか。いや、それとも、中が見えない擦りガラスだったろうか。
 初めてこの店に辿り着いた17歳だった僕は、大音量のジャズだけが漏れてくるこのドアに怖気づいて引き返してしまったことがある。
 このドアを押し開けた者だけが、『蝶類図鑑』を知るのだ。
 ジャズ雑誌には、それがジャズ喫茶だとは判じ難いような広告を出し、店のマッチ箱には洒落た意匠を施した。
 場所は、更に昔、梶井基次郎が画集の上にそっと檸檬爆弾を仕掛けた京都丸善近くの路地を入ったところ。その丸善さえ今はないけれど、時代が違えば梶井基次郎だって『蝶類図鑑』に通ったかもしれない。
 そんな、不思議な店だった。

==============================

初恋の人の名前を検索してみたことがありますか?

 - 日記みたいなもの , ,

Comment

  1. 匿名処理班 より:

    何年間か『蝶類図鑑』の常連をしていました。コーヒーが200円→250円の時代でした。
    気になるJAZZがかかると、一筋か二筋北側の洋盤レコードの店で探して財布の都合が良ければ買って帰りました。

    昨年、息子二人から「赤いポロシャツ」「赤いマフラー」をもらいました。
    ついこの間のようですが、遠い昔のことなのですね。

  2. Tomoko N. より:

    深海さん、初めまして。
    記憶が正しければ、1982年に『蝶類図鑑』に行ったことがある者です。

    大学の同級生の中で、一番仲の良い人がいました。
    「男女間に友情は成立しない」という俗説を
    みごとに覆すような付き合いができた人でした。

    映画を観ての帰りだったかと思いますが、
    一度だけ『蝶類図鑑』に連れて行ってもらいました。
    その時は、ずいぶん迷ったように思います。
    「よし、ここをもう一度通ってみて、それでもわからなかったら諦めよう」
    と言って歩いたその通りに、そのお店はありました。

    何を話したのか、ほとんど思い出せませんが、
    薄暗い店内、雑音の多いレコードの音・・・
    深海さんの文章が、ぼんやりした記憶を蘇らせてくれました。

    一昨日、彼の訃報を彼の死の8ケ月後に知りました。
    久しぶりに出した手紙にも、年賀状にも返事がなく、
    「えらい忙しいんやなぁ」くらいに思っていたところに、
    彼の弟さんから連絡をいただきました。

    二晩、涙が枯れるほど泣き、やっと少し落ち着きました。

    今度、彼の実家にお参りに伺うのですが、
    その時、思いつく限りの思い出話をさせていただこうと思い、
    昔の記憶の糸をたどっているうちに、貴ページを知りました。

    深海さんがこの記事を書かれたのは2月、そして編集されたのが4月。
    もしかしたら、彼も深海さんの記事を読んだかも知れませんね。

    『蝶類図鑑』のことを思い出させてくださって
    本当にありがとうございました。

  3. ナッツ より:

    “蝶類図鑑”懐かしいです

    サウナカプリが入っているビルの2階

    毎週日曜日、
    祇園場外で馬券を買って
    角の丸善で本を見て
    隣の餃子の王将で昼飯食って
    “蝶類図鑑”へ

    私のお気に入りはドアを開けた正面左
    明り取りの窓の下
    小さなテーブルが懐かしい

  4. ミヤザキ ツヨシ より:

    薄暗い店内、立ち昇る紫煙、大音量のJAZZ…….もう30数年前の生意気な大学生の頃の記憶がフラッシュバックした。 トイレの壁に描かれていた『クソ(空想)とシッコ(思考)の場』というフレーズにニヤリとした記憶も。

  5. 鱈魚 より:

    蝶類図鑑のことを思い出していたらこの記事に到着しました、懐かしいです。当時の事を思い出しました。

    僕も1980を跨ぐ数年間『蝶類図鑑』の常連をしていました。その喫茶のアルバイトを希望していましたが、人員が空かず、縁があってビルのオ-ナ-らしいサウナカプリ、3階に学生のアルバイトでこれも何年か居ました。
    『蝶類図鑑』には本を持って入りいつも1.2時間を過ごしていました。1000杯のコーヒーをそこで飲み干したと自負していましたが、700杯を越えるあたりかなと最近は思っています。

    鳥類図鑑の入り口にはエリック・ドルフィ-の等身大ポスタ-がカッコよく、僕はドルフィ-の深い森のファンになりました。喫茶オリジナルのマッチ箱も素敵で、時々貰っていました。個人で僕もマッチ箱作ろうとも思いました。僕も将来ジャズ喫茶がしたいなと思い、『鳥類図鑑』の看板をもじった『河馬類土管』(カバ印のついた土管3本のデザイン、色合いは鳥類図鑑と同じ)のデッサンを喫茶店の中で書いていました、あほですね当時の学生の私は。

    サウナにはエレベ-タ-で行くのですが、2Fの『蝶類図鑑』には階段で上がっていく筈でしたね。喫茶店にいく皆様、薄暗かったと記憶しています。その階段は非常階段を兼ねていて、3Fのサウナに行けます。2階の『蝶類図鑑』のドアをお客さまが開けると、階段にジャズの音が多量溢れます。ドアを閉めると、音は小さくなりますが、LPの音がまだ漂っており場末の雰囲気がします。ドアを開けると音が溢れ、ドアを閉めての繰り返しですね。

    鳥類図鑑はたしか定休日があり、そのときは階段にはジャズの音は漂っていません。常連の方は1階の階段の所まで来てジャズの音がしないと「今日は定休日だったな」と気がついて階段を上がらずに帰っていきます。

    その様子を3階の非常階段のところでサウナのオ-プンの準備をしながら見ていたのですが、あるときイタズラを思いついて、『蝶類図鑑』の定休日に3階の非常階段からサウナの開店の準備をしながらラジカセなどで、僕の好きなエリック・ドルフィ-を流して、緩く階段をジャズで満たしてみました。

    そうすると、1階のところでジャズの常連達は定休日に気がつかず、2階の『蝶類図鑑』のところまで来て、ドアが開かず「あれれっ」という顔をして、廻りを見渡し音楽が3階から流れて来るのに気がつくと、怪訝な顔をして帰っていくのでした。それを3階の非常階段の隅で気配を察し、ほくそ笑み、あの日、数組の方々皆様にいたずらをしました、あの時はごめんなさい。無為な、成果の出なかった若い日々でしたが楽しかったです。

  6. やまね より:

    当時常連でした。大音量・・と言う方もいますが三条のビッグボーイのオリンパスS8Rの前より随分小音量でしたよw システムはJBLのC-36にD123+LE175DLH+N2400だったと思います。小さな箱ですよ。押してるアンプはマッキンのMC2105だったと思います。話せない店ってよく書かれてますが 小学校の椅子みたいな椅子が全部スピーカー向いてるので 話せるわけがないw 話したい人はビッグボーイのスピーカーの前で怒鳴ってました。私はここと四条のマンホールの常連だったんで懐かしいです。もう無いのが悲しいですけど。

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

  関連記事

ふがいない僕は、真夜中に背中を丸めて、大きな溜息のような息を、ゆっくりと注意深く吐き出す

 iPhoneにイヤホンジャックをつないで、かれこれ2時間以上音楽を聞いている。 …

吉田修一の『愛に乱暴』を読んだ話

 さて、(ん? なにが、「さて」だ?)、各種SNSでやっぱり吉田修一はいいなと言 …

no image
僕は、ここにいる

 おそらく、この記事が今年(2013年)最後の記事になりそうだ。  早いもので、 …

no image
蝋梅は、梅ではないらしい

 先日、娘と夕飯を食べながらテレビニュースを見ていたら、どこかのお寺の境内のよう …