深き海より、蒼き樹々の呟き

by 深海 蒼樹(ふかみ そうじゅ)

*

ノートの使い方ー序章『見たな?』

      2014/02/14

 前回、いわゆる筆記具で言うところの、筆にあたるシャープペンシルについて書いた。
 2.0mmシャープペンシルと、苦闘する
 そうしたら、今度は書かれる側のノートについても、あれこれと書きたくなったので、書いていこうと思う。

 しかし、その前に、いきなりの余談だ。
 僕には、ふたつばかりの、ノートにまつわる思い出話がある。まずは、そのうちのひとつについて、書かせてもらおう。

 僕が学生だった頃、それは、サークル室の机に、見慣れないノートが置いてあったことからはじまる。
 ノートの表紙には名前もなにも書かれていなかったので、ごくごく自然な気持ちで、
 『ん?誰のノートだろう?』
と、その場に居合わせた新入生の僕らは、ノートを開いた。
 次の瞬間、僕らが目にしたのは、小学生が無理して書いたような、拙い、汚い字で埋め尽くされたページだった。

 『なんだ、これは?』
 そのノートを見た瞬間、誰もが思わずそううめいてしまった。
 それくらいインパクトのある、ひどい文字が、びっしりとノートを埋めていた。
 『かてきょう(家庭教師)バイトの、生徒のノートじゃないの?』
と、誰かが、言った。
 『それにしても、汚い字だなぁ。こんな字で答案されたら、採点する気力が、削がれる』
 『まずは、字の練習をさせた方がいいぞ』
なんて、勝手なことを言いながら、しばらく、ページをパラパラめくっていたら、人間とは慣れる動物であるもので、段々と、最初のインパクトが薄れ、その独特な文字にも慣れてきて、書かれている内容が目に入ってくるようになってきた。
 そして、更に、僕らは驚いた。
 どうやら、そのノートの内容は、フェルディナン・ド・ソシュールの『一般言語学講義』について書かれたものだったからだ。ある部分には、チョムスキーへの言及もある。
 新入生の僕らにしても、そんなものが、中学生のノートのはずがないことは想像できた。
 僕らだって、ソシュールが近代言語学の父であることを知ったのは、つい先月の話だし、チョムスキーに至っては、とにかくすごい人らしいってことを、知っているだけだった。

 小学生以下の字で、

ソシュールは、言語を通時言語学と共時言語学に二分し、更に共時言語学(記号論)においては、言語の社会的側面(ラング)と言語の個人的側面(パロール)に二分した。
なんて、書かれたそのノートを取り囲んだ僕らの顔は、徐々に険しくなっていった。
 なぜなら、書かれているのがソシュールの『一般言語学講義』についての講義だということによる謎よりも、こんな汚い字で書かれたものが、僕らの理解を越えた高度なものだと思われることへの畏怖と敗北感を感じはじめていたし、いつのまにか、そんなノート自身が、不気味にさえ感じられはじめていた。
 これは、単なるイタズラなのか?
 それとも、不吉なお告げなのか?
 このノートは、誰が、どこからもってきて、なぜ、僕らの目の前にあるのだ?

 とりあえず、僕らは、そのノートのことを忘れることにして、サークル内の同級生の女子の話をはじめた。そのうちに、話はどんどんと盛り上がり、同級生から先輩女子にまで及んでいった。
 『S先輩って、いいよなぁ。彼と別れないかなぁ』
と、誰かがいい、
 『たとえS先輩が彼と別れたとしても、お前にチャンスはない』
とか言いながら、彼がいるとは知っているものの、どんな彼なんだろう、きっとすごい男前なんだろうな、とか勝手な想像をして、おもいおもいにS先輩の会ったこともない彼を妬んで、腹を立てたりしていた。

 サークル室のドアが、音もなく開いたのは、ちょうどそんな時だった。そして、ドアから出てきたのが、今まさに話題の中心だったS先輩の大人っぽくもかわいい顔だったので、僕らは口をアングリ開けたまま一瞬静まり返った。
 『先輩、こんにちは』
 気を取り直して、誰かが、挨拶をした。
 『授業、終わったんですか?』
と、誰かが、つづいた。
 しかし、S先輩はぎこちなく笑うだけで、返事もしない。
 サークル室の中を、S先輩の視線がしばらく泳いでいた。そして、その視線があのノートの上に舞い降り、先輩がホッと安堵の溜息をつくのが僕らにもわかった。
 『そのノート、とってくれる?』
 一番ノートに近い位置にいた僕に、S先輩が微笑みながら頼んだ。
 なんてきれいな顔なんだろう。それだけで、僕は、嬉しかった。
 僕が、言われたとおり、ノートをとりあげようとすると、
 『あっ、やっぱり、いい。自分でとるから、触らないで』
と、先輩にしては珍しい、どこかトゲのあるような言葉が投げかけられ、机の上からノートを素早く取り上げると、S先輩は大事そうにそのノートを胸に抱いた。
 その一瞬だけ、ノートになりたいと、僕は思った。

 先輩が、安堵の色を浮かべながらも、足早にサークル室を出ていく。
 僕らの方を向きながら、最後にニッコリといつもの笑顔を浮かべ、
 『じゃあね』
と挨拶をし、
 『あっ、今日の授業は全部終わったよ』
と、かなりな時間差で、誰かが投げかけた質問の返事を残して、ドアは閉まった。
 しかし、誰かが、つめていた息をやっと吐き出した途端、またドアが開いて、最後まで吐ききれなかった息を、僕らはもう一度飲んだ。
 『ねぇ』
と、S先輩が、誰というのでもなく、僕らに言った。
 これからS先輩が僕らになにをきこうとしているのかは、あまりにも明らかで、僕らは凍りついた。
 そして、言葉は投げられた。
 『誰か、ノート、読んだ?』
 勿論、僕らは全力をあげて、首を横にふった。これまでの人生で、こんなに首をふったことはないってくらい。
 『フーン』
と、先輩は、唇を尖らせてみせた。
 その顔もまた、くやしいくらいに、可愛かった。僕は嫉妬のあまり、S先輩の彼、帰り道で犬のう◯こ踏んでしまえ、と、心のなかで叫んだ。
 『ほんとは、見たでしょ?』
と、僕らの予想以上に、先輩がねばった。
 そして、その疑いの眼差しを向ける顔がまた、美しすぎた。
 これ以上は、首がもげるかもしれないと思いつつも、僕らは更に力強く首をふった。
 あまりに首をふりすぎた誰かが、そろそろ脳震盪で倒れそうになった頃、
 『言っておくけど、こんな汚い字のノート、私のじゃないからね。勘違いしないでね』
と言って、またしても、ニッコリと先輩が笑った。
 僕ら全員が、その笑顔につられて、ニヤついた笑い顔を浮かべ、
 (そんなことは、当たり前じゃないですか)
と言わんばかりに、今度は全力で首を縦にふった。
 そして、あのノートがS先輩のものでないことを知って、僕は、心の底から、よかったと思った。

 後々、わかったことによると、そのノートは、S先輩の彼のノートだったらしい。先輩の彼というのは、僕らが入学するのと入れ替わりで卒業されていて、会う機会がなかったのだけれど、諸先輩の話によると、S先輩にお似合いの、いわゆる、シュッとした爽やかな男前だということだった。
 しかし、僕らは、知っていた。その彼が、呪われたくらいに汚い字しか書けない男だということを。
 だから、時として、憧れのS先輩のノロケ話的なものが耳に入ってきても、「でも、字が致命的に汚いんだよなぁ」と思うことで、僕らは、焦がれるような嫉妬心から逃れることができていた。
 あの事実を知るまでは。

 S先輩も卒業し、卒業とほぼ同時くらいに、1学年違いの例の彼と結婚されたこともあって、僕らとしてはやっとそのタブーから解放された気分だった。
 なにかの話の拍子だったように思う。
 誰かが、
 『でも、S先輩の旦那さんになった人って、字が得意じゃなかったでしょ?』
と、一応は後輩としての礼を尽くして、かなり遠回しな言い方をして、言ったのだった。
 それを聞いた最上級生が、
 『え?誰のこと?』
と、訝しげに、聞き返した。
 『S先輩の旦那さんになった、僕らは直接は知らないM先輩ですよ』
と答えて、実は…という話を長々としたのだった。
 僕らは、長い間溜め込んでいた秘密をやっと紐解いて、ニヤニヤと笑っていた。
 しかし、僕らの笑いとは対照的に、その先輩の顔は腑に落ちないという感じのままで、
 『M先輩は、きれいな字を書く人だったよ』
と、真っ向から否定されてしまった。
 パソコンどころか、ワープロさえまだ普及してない時代で、サークルのお知らせなど、手書きが当たり前の時代だった。M先輩と一緒にサークル活動をしていたことのある先輩が、その悪筆を知らないわけがない。
 『そう言えば、Mさん、右手の指を折ったことあったよね』
と、先輩のうちの誰かが言った。
 『えっ?』
 僕ら全員が、思わず、声に出してうめいた。あの時と、同じように。

 シュッとした爽やか系男前で、サークル中の全男子憧れのS先輩の彼から今はその夫となり、しかも、字が呪われたように汚いどころか、きれいな字を書く人だって?
 そんな不公平が、あっていいのか?
 それを不公平と呼んでいいのかどうかは、わからないけれど、またしても、僕は、S先輩の旦那、これから毎日、鳩の糞が頭に当たれと願った。

 - 文房具, 日記みたいなもの ,

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