深き海より、蒼き樹々の呟き

by 深海 蒼樹(ふかみ そうじゅ)

*

ペタペタが、ついてくる夜

   

 その日は、まったくついてない日で、やることなすこと裏目裏目に出るっていうか、他人の話す日本語がアラビア語以上に難解で意味不明な、なんかもう言葉の通じない動物の中で暮らしてるような気分になっていたんだ。
 そんな時って、あるよね? 自分と他人と、どっちが上でも構わないんだけど、どうも話がとにかく噛み合わない時。
 更には、身内である社内の人間より、お客さんとの方が話がスムーズにしっくりいって、なんか慰められてる感満載で、お客さんに「あんたもこんな会社じゃ苦労するね」みたいなことまで言われて、苦笑しながら、すごい惨めな気分になるような時。
 勿論、僕は何度も深呼吸をして、視野狭窄になっていないか、偏狭になっていないか、自分に甘く他人に厳しくなっていないか、はたまた、自分を宇宙空間に浮かべて地球を見てる気分を想像したりもしたのだけれど、それでも、どうにも胸糞悪さは払拭されずに、デスク脇のゴミ箱を蹴り飛ばして溜飲を下げたい気分だったのだけれど、それをすると、それはそれで暴力的でもあり威嚇的な気がして思いとどまったのだった。
 おそらく、ゴミ箱に八つ当たりできていたなら、こんな事態には陥ってなかったのかもしれない。今更悔やんでも遅すぎるけど。

 時間は、既に深夜だった。それでも、早めに仕事を切り上げたつもりではいたんだ。いつまでも、言葉の通じない小さな世界にいるのが、どうにも息が詰まってしまって、とにかく、水中から息継ぎをするためにイルカが海面に顔を出すように、その水圧のかかった息苦しい世界から、一歩でも出て、大きな息をしたかった。
 それにしても、もしくは、そうやって早めに切り上げても、既に深夜ではあった。まったく、馬鹿げている。

 そんなことを考えながら、怒りの感情を沸々と煮えたぎらせていたせいで、僕の後ろでその足音がしはじめたのがいつからなのか、見当もつかなかった。
 僕は、男だ。しかも、50才を過ぎた、押しも押されぬオジサンであり、中年だ。こんなヤツを襲うとしたら、体目的のはずはなく、誰が考えても金目的の強盗くらいだろう。もしくは、ただ単に、殴りたいだけの気晴らし強盗か。
 しかし、それにしては、その足音が、細かいのだ。ふとその足音に気づいた時には、複数の足音が混ざっているのかと怪しんだほどだった。
 そして、一番の問題は、その足音を言葉にするなら、ペタペタとしか表しようがないことだ。
 いくら50歳のオッサンとは言え、深夜帰宅中に、背後にへばりつくように追いかけてくるペタペタという足音というのは、コツコツという足音以上に不気味だ。
 それは、身の危険というよりは、なんだか、とんでもない世界に引きずり込まれていくような、不安と恐怖と言えるだろうか。

 ペタペタ………、そんな足音に、心当たりはなかった。
 サンダルか、スリッパ? いや、こんな寒空に、そんな格好はないだろうと思うものの、自分が出そうとしている結論は、それよりももっと非現実的なものだということに思い当たって、僕は思わず立ち止まりそうになった。
 立ち止まったら、その足音の主との距離があまりに縮まりそうで、僕は二歩だけそれまでと違うテンポで、早足をした。
 しかし、そんなことがあり得るのだろうか? サンダルやスリッパでは寒すぎると考えながら、僕がその足音から推測した答えは、もっと寒すぎるものだった。
 ペタペタ…、いや、考えれば考えるほど、今度は逆にそれしかありえないように思えてきた。
 それは、裸足で歩いている音だ。

 なぜ、裸足なんだ?
 僕の格好を説明しよう。典型的サラリーマンのスーツ上下と、その中には長袖のヒートテックだって上下身につけているし、コートを着て、首にはマフラーだって巻いてるし、手袋だってしてる。風は、ものすごく冷たくて、むきだしの僕の耳が削がれそうなくらい寒い。路面だって凍ってはいないものの、かなり冷たいはずだ。犬や猫だって、肉球がシモヤケになりそうなくらいには冷えている。
 なのに、裸足だって?
 いや、裸足だと決まったわけではない。ただ、足音は、どう聞いても、ペタペタなのだ。
 そうか、サンダルやスリッパが非現実的だと排除しながら、更に非現実な裸足を導き出しているというのは、明らかに破綻した論理だ。サンダルやスリッパの方が、裸足でいるよりはずっとましなはずで、答えはスリッパを履いた誰かだと推理してもいいはずだ。
 いいはずなのだけれど、僕の中のなにかがそれを許そうとしない。頑なにその考えを、可能性の中から押し出そうとしている。
 こうも考えられる。たとえば、この追跡者の履いているものが、僕が排除したサンダルだったとしよう。そうだ、サンダルが、正解だった場合についてだ。その時は、僕は、不正解でいい。喜んで、不正解の汚名を浴びようではないか。
 ぺたぺたの正体は、裸足だ。最早、それが、正解かどうかすら問題ではない。
 だから、裸足を、僕はイチオシする。

 ということで、裸足であろうとなかろうと、それは、裸足だという結論で一件落着なわけだから、僕はそろそろ走り始めてもいいだろうか?
 ぺたぺたという足音は、さっきも言ったように細かな歩幅を感じさせるものだったので、走って逃げてしまえば、齢50過ぎの僕でも振り切れそうな気がする。
 わざわざ勇気を振り絞って、振り返る必要もないと思うんだけれど、どうだろう?
 この足音が、ヒタヒタであったなら、僕は、とっくにダッシュしていただろう。こんな冬の真夜中に、自分の後ろについてくる足音が、ヒタヒタだなんて、想像しただけでもゾッとする。
 まぁ、ペタペタという足音につきまとわれている今、そんな比較を試みることが適正かどうかは、判断に苦しむところだけれど。
 ヒタヒタなら、それは、絶対に見たくないものが僕の後ろをついてきているに違いない。違いないとは思うけれど、見たくないのだから、確認もしたくないのだ。
 それは、高確率で、霊的なものであるのだから、肉体的実害はなさそうだけれど、精神的ダメージは計り知れないため、ただただダッシュで逃げるしかない。ダッシュで逃げながらも、いや、そういうシチュエーションを想像している今ですら、相当やばいものを頭のなかに思い浮かべている。たぶん、真夜中に尿意を催しても、朝まで我慢しようと思うくらいには、既にいろんなものを頭に浮かべてしまった。

 幸運にもと言うべきか、このペタペタというのは、そういうものとは違う気がするにはするのだけれど、結論から言うと、やっぱり振り返りたくはないというのが、包み隠さない僕の本音だ。
 振り返って、見て、決して楽しいものではないだろう。なぜだか、そんな気がする。
 たとえば、ペタペタという足音から想像されるものとは、なんだろう?
 しかも、歩幅が狭く、細かい足音だとしたら。
 正直に、言っていいだろうか? でも、ないことでは、ないかもしれない。
 はぐれペンギン。
 いや、別に、「はぐれ刑事純情派」とかは、まったく意識してないし、関係ない。
 どうだろう? いい線いってるような気が、実はしてるんだけど。
 どこかの誰かが飼っていたペンギンが檻から逃げてしまって、今、僕の後ろをついて歩いているのだ。それは、僕に対して好意があるとかそういうことではなく、動くものに対して本能的についていってしまうとか、そういうことなのではないだろうか。
 もしくは、そういうことであることを、僕は、強く望む。

 ペンギンくらいで、いいよな。でも、しまった、僕の頭のなかでは、すっごくガラの悪いペンギンが思い浮かんでしまった。どれくらい、ガラが悪いかって言うと、ペンギンのくせにくわえタバコしてるくらいのガラの悪さ。
 昔ながらの、腹巻きしてて、髪はもうペンギンらしく、派手な色で逆立ってて、場合によっては、オッサンのくせに、まつ毛までレインボーに染めてるくらいな。
 しかも、お似合いの厚化粧のメスを隣りにはべらせて、力強くそのメスの肩を引き寄せながら歩いてる感じ。そのメスはメスで、背中に派手な刺繍の付いた革ジャンなんかを、袖を通さずに羽織ってる感じで。
 ということは、やっぱり、目的はカツアゲって感じだよな。
 ついてなくて絶不調だった一日の終りが、ガラの悪いペンギンのカップルにカツアゲくらうって、最悪だよな。そう言えば、財布にいくら入ってた? もう、次の給料日までは、キャバクラにはいけないな。新入りのまゆちゃん、もうひと押しってとこまではいけてたのに。
 「金は、出せねぇ」
なんて、抵抗したら、あの尖ったクチバシでつつかれるのかなぁ? それとも、噛むんだろうか、ペンギンって?
 金の代わりに、魚じゃダメなんだろうか?

 ペタペタ…、ペタペタ…、ペタペタ…、
 そう言えば、ピューピューとか、可愛い音が出る子供用の靴があるけど、ペンギンの足音がする靴を履いた、オチャメな凶悪強盗だったりしたら、もっと最悪だな。
 ペタペタ…、ペタペタ…、ペタ
 いや、もう、絶対に振り返らないから…

 

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