深き海より、蒼き樹々の呟き

by 深海 蒼樹(ふかみ そうじゅ)

*

重症急性膵炎(4)–僕の病気

      2015/04/10

 そうか、あれから、もう4年の歳月が過ぎていこうとしている。
 あれから、とは、このブログのプルフィールにもわざわざ書いてあるように、重症急性膵炎で入院していた頃から、という意味だ。
 そう言えば、10月初めの定期検査と診察の際にも、主治医がポツンと、
 『もう4年になるのかぁ』
と、漏らしたのだった。

 おかげさまで、僕は、それなりに、元気にしてる。
 それなりと言うのは、あの頃、僕が無意識のうちに想像していたよりは、ずっと元気であると言っていいかもしれないという意味で。しかし、それはそれで正直な感想ではあるのだけれど、そんな思いとは反対に、4年も経ったのにまだ病後だと感じる日々に襲われるのも事実だ。
 どちらが、正しいのか、僕にもよくわからない。
 まともな食事は、もう一生できないんだと思ってかなり落ち込んだこともあったし、恐る恐る食べてみれば、思いのほか痛みも支障もないように感じて、勝手に食事制限を解いてしまったのも、僕だ。
 それが、僕の身体や内臓にとって、決していいことでないのはわかっている。我慢できずに手を出した1杯のコーヒーの、そのカフェインが、僕の人生を長くすることはないだろうと予測することはできても、今後の僕の人生をどれだけ短くしているのかは、おそらく誰にもわからない。
 ありきたりな言い方だけど、僕は、明日、膵炎とはまったく関係ないことで、この世から消えてしまうかもしれない。人生とか、命というのは、そういうものだ。
 重症急性膵炎を患ったからと言って、この病や、この病を起因とするもので死んでいくと決まったわけではない。

 たぶん、それは、下手な言い訳なのかもしれない。
 そして、そんな下手な言い訳で自分を誤魔化せる程度には、僕は、元気であり、現在切実な状況下ではないということだ。
 ありがたいことに。
 幸運にも。
 神のご加護のもと。

 そう言えば、病院にも、年末年始の長期休暇がある。一般的な会社と同じように。
 ただ、入院患者や救急患者の受け入れがある大きな病院では、年末年始だからと言って、すべてを休ませるわけにはいかない。基本的には、緊急以外の外来診察が休みなだけで、病院自体は休みなく機能しているということになる。
 ずっと病棟暮らしだった僕には、1階の外来のにぎわいもほとんど関係がなかった。4年前の今頃、僕は、まだ個室病室から出ることすら、許可されていなかった。

 まだ、トイレにすら、自力でいけてなかったかもしれない。消化系の内蔵を休ませるために、食事というものは一切摂っていなかったので、トイレと言ってもなにも出るものはない。体液は、体に挿し込まれたチューブで外に出していた気がする。
 集中治療室で挿し込まれていた動脈注入用のカテーテルは、個室に移ってしばらくして、主治医が抜いてくれたのを覚えている。太いカテーテルを抜いたあとの止血のため、主治医が長い時間押さえてくれていたことと、カテーテルを抜く際に、その様子をじっと見ようとする僕に、「見ないほうがいいよ」と忠告をしてくれたことを、覚えている。彼の忠告を守らなかった僕は、彼がそっと隠そうとしたそのカテーテルの長さに、そんなものが入っていたのかと身震いをした。
 心臓に向けて消毒剤を注入していたカテーテルは、看護士さんの業務外にあたるため、医師でないと抜けないと説明された。僕は、それが、僕の鎖骨のあたりに糸で縫いつけられていたことすら、知らなかったのだ。
 見覚えのない女性医師が現れ、無表情に糸を切り、カテーテルを抜いて出て行った。そして、その跡は、数ヶ月に及んで消えることがなかった。
 少なくとも、人工透析用のチューブも合わせると、これで3本のチューブが僕の体から抜けたことになる。
 しかし、鼻には、高酸素吸入用のチューブと、薬を入れるための腸にまで達する長いチューブが入っていたし、腕には点滴針が刺さっていて、栄養剤や消毒剤が取り替えられながら24時間休みなく入れられていたし、脈拍計も貼ったままだったし、体液を輩出するためのチューブが、どこかに刺さっていたはずだ。ビニールパックには、不思議な緑色をした液状のものが、いつも溜まっていた。

 入院してから、1ヶ月が過ぎて、担当する看護師さんの年齢が下がってきていた。もしくは、ナースキャップに、なんの目印もついていない看護士さんが、担当するようになっていた。
 今、思い返すと、そういうことなんだろうな、と、納得する。僕は、ひとつの危機を脱して、小康状態が確認された時期にきていたのだ。
 検査の数値的には、主治医はまだまだ納得も安心もしていないようではあったし、下がるはずの数値が思ったほど下がってこないと嘆いているのを、何度も聞いた気がする。
 それでも、僕は、なんとか、こちら側に踏みとどまれたわけだ。
 ありがたいことに。
 幸運にも。
 神のご加護のもと。

 思い返してみると、2ヶ月にも及ぶ入院生活の中で、僕は毎日なにをしていたんだろう? と、不思議に思うことがある。
 集中治療室での1週間は、今でも、あまり思い出したくない。思い出したとしても、それが、事実かどうかすら、自信がもてない。
 意識は、トビトビで細切れで、かと言って、寝たという自覚がない。体中にチューブが繋がれ、その先には、また機器が取り付けられ、24時間その器械が不調でいろんな音をたて、24時間誰かが僕に話しかけ、とにかく体をまっすぐにして天井を見つめて寝返りはおろか身じろぎすらしてはいけないと、優しさよりも、緊急的な切実さのこもった声で繰り返す。

 そんな状態にもかかわらず、一度、僕は、体に入ったチューブを引っこ抜いている。苦しさのあまり。
 しかし、抜いたときの記憶は、ほとんどない。あるのは、処置室に運び込まれ、車いすに座らされている場面だ。そこでも、僕は、再度チューブを挿入されることにひどく抵抗を試みていた。
 たぶん、
 『もう、いいよ』
と、言ったかもしれない。
 「もういいから、楽にしてほしい』
と。

 とは言っても、この時の記憶が正しいのかということについても、僕には、まったく自信がない。
 なぜなら、僕の記憶では、僕は車椅子に座らされていることになっているのだけれど、集中治療室に入れらていたあの状態で、車椅子に座ることなど可能なのだろうか?
 というのも、僕は、検査や処置が必要なときには、ベッドごと、ベッドがストレッチャーでもあって、そうやって移動されていた。そして、体中には、何本ものチューブが刺さっていたはずで、そのチューブを絡まないように、支障のないように整理して車椅子に僕を座らせることは、至難の業だったはずだ。もしくは、絶対的に不可能な気もする。

 しかし、集中治療室で過ごした1周間のうちの、どこかの時点で、
 『もう、いいよ』
と、僕は、誰かに言ったのは間違いない。
 それは、僕の脳の皺のどこかに、はっきりと刻まれているし、言ってはいけないことを、僕は言ってしまったという、後ろめたさとともに、記憶されている。
 それでも、僕は助かった。僕自身が、一瞬であれ、あきらめようとしたと言うのに。
 ありがたいことに。
 幸運にも。
 神のご加護のもと。

重症急性膵炎(5)–僕の病気

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Comment

  1. 深澤厚 より:

    その感覚理解できます。
    自分も1年前まで(と言うより1年前の今日退院)煩っていたのですが、自分の記憶と、他人の記憶が違うということがありました。

    もしかして、自分は3回くらい死んで、病状が良くなった今の世界に生きているのかも知れないという感覚があります。

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