深き海より、蒼き樹々の呟き

by 深海 蒼樹(ふかみ そうじゅ)

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エレガントであることは、こんなにも強烈で力強いのか!—ルーシー・リーに打ちのめされた話

      2017/01/24

creator

 それは、かれこれと、2年以上も前の出来事であった。決して、その作家が目的ではなかったとある展示会で、思いもかけず僕はルーシー・リーとハンス・コパーに出会ったのだ。
 いつものごとく最初に断っておくが、僕は殊更にルーシー・リーについて詳しいわけでも、ハンス・コパーのファンでも、陶芸に精通しているわけでもない。
 それでも僕は、ただ自分が見たものを、自分が感じたままに、どうしても伝えたいという思いを捨てられなくて、2年前の出来事をこうしてほじくり返している。

 これから語ろうとしている僕の驚きは、元々、僕の誤った認識なり、偏った先入観によるものだと言われれば、返す言葉もない。
 しかしながら、一般的な見解として、ルーシー・リーとは、洗練されたデザインチをもつ、エレガントな作品を生み出す陶芸家ということで、あながち間違ってはいないだろう。
 対して、ハンス・コパーとは、その実用性や器としての存在を越えて、そのフォルムやカタチとしての面白さを陶器で表現した作家だと、僕は認識している。
 単純化して言えば、ルーシー・リーは、正統派、ハンス・コパーは、そうではないと。

 たとえば、ハンス・コパーの、ティッスル・フォームやスペード・フォームを見る時、僕はついつい「土偶」を連想する。
 (参考:静岡市美術館 「ハンス・コパー展 —20世紀陶芸の革新」)
 日本史の授業では、『土偶とは、人間(特に女性)を模して作られたものである』と教えられた記憶がある。
 その独特なフォルムや、デフォルトは、子孫繁栄につながる多産や安産を祈願するためのものであったと。
 しかしながら、「土偶」とは、はるか昔々、古代人が遭遇した宇宙人を表現したものだ、という説もある。
 そう発想したくなるくらいに、「土偶」には、模写を越えたオリジナリティーがあり、そのフォルムには、人の心と目を惹きつける力強さがある。
 そして、ハンス・コパーの花器や、ポットにも、それが花器であろうとポットであろうと関係ないくらいに、その実用性を遥かに越えた、独特のフォルムがもつ力強さがある。

 対して、ルーシー・リーの作品は、ひとことで言えば、エレガントだ。
 どこまでも瀟洒で軽やかで、オシャレである。
 ひと目見れば、その美しさと洒脱さが、すんなりと体の芯に入ってくる。
 首を捻って考える必要もないし、シリアスに考えこんで過剰な解釈をする必要もない。
 その器が持つ美しさにただただ驚嘆し、ため息を漏らせばいいのだ。
 と、思っていた。

 多くの展示がそうであるように、幸か不幸かルーシー・リーとハンス・コパーは、その二人の関係性から並んで展示されることが多い。
 企画展にしても、単独の開催というよりは、『ルーシー・リーとハンス・コパー展』といった展覧会が多いような気がする。
 僕が見たのは、二人の特別展ではなかったのだけれど、やはり、二人の作品が相向かいで、対峙するように並べられていた。

 先に僕を捉えたのは、ハンス・コパーの作品だった。
 思いもかけず、コパーの作品が見られて嬉しいと思ったし、そのフォルムと質感に目を奪われ、事実、魅了された。
 そして、僕の中にあったコパーへの微かな疑問と誤解も、氷解した。
 正直、それまでの僕は、コパーの作品の独特なフォルムに、奇を衒ったような『あざとさ』を感じないわけではなかったのだけれど、この日を境にしてその思いは霧散した。

 そして、そんな勝手な誤解に基づく齟齬が解消されて、僕は、気分よく、今度はルーシー・リーの作品に目を転じる。
 まさか、その直後に、自分が打ちのめされるとも知らずに。
 誤解を恐れずに言えば、それらは、ほんとうに、とりたてて、なんの変哲もない作品だったのだ。
 黒を基調にした、瓶や鉢が、ひっそりと、ただ静かに佇んでいるように並んでいた。
 しかし、その器の口や糸切りに、クリーム色が少し入っていたり、胴や器の内側にあたる見込みに、ストライプやボーダーの単純な模様が入っていたりする。
 何度も言うけれど、失礼ながら、ただ、それだけのことなのだ。そのくらいのことは、不器用な僕ですら、できそうに思えてしまうくらい。
 にもかかわらず、その作品群がもつエレガントさは、さきほどまで酔いしれていたハンス・コパーを忘れさせるほどに、強烈だった。
 洒脱だとか、オシャレだとか、まかり間違っても、『シャレオツ〜』なんて浮かれていられない。
 僕を押し黙らせたように、展示室のルーシー・リーの一角だけが、静謐なくらいに静かであるこに、僕は気づいた。
 そのエレガントは、強烈を通り越して、凶暴と言ってもいいほどに、僕を圧倒し、打ちのめし、驚嘆の溜息すら許さないほどに、静けさを強いた。

 エレガントとは、ただ美しいだけではなかった。
 作品のひとつひとつに、ルーシー・リーの狂おしいまでの意志を感じずにはいられない。
 僕のルーシー・リーのイメージは、彼女の初老から晩年の頃の写真のイメージであり、温和な微笑みをたたえた姿だった。
 けれど、彼女はそんな優しいだけの人でも、温和な人でもない。おそらく、強い意志の人だ。
 そして、なによりも、ルーシー・リーは、エレガントがどんなものであるかを、知っている。勿論、僕なんかが遠く遠く足元にも及ばないくらい。
 だから、彼女には、エレガントな作品を作ること以上に、その作品を通じてエレガントそのものを創出できるのだ。

 僕は、ふと、展示室の高い天井を見上げた。
 そんなことを、ルーシー・リーが言い放つはずはないのだけれど、僕の耳には聞こえたような気がした。
 『エレガントを、舐めちゃダメよ。エレガントと、か弱いということは、まったく別物なのよ』
と。

200点の作品を集めた展覧会が、日本を巡回していきます。
没後20年 ルーシー・リー展(2015-2016)

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